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「インターネット利用の洞穴化を考える」

慶応義塾大学アート・センターのニューズレター『ARTLET21(2004.3.31.発行)

特集「メディアとアート」について

橋本努(経済思想・政治哲学/北海道大学大学院助教授)

TEXT: HASHIMOTO, Tsutomu

 

 

マスメディアの影響力が衰えている。米国の3大ネットワークの視聴率はこの30年間に3分の1も低下しており、現在最も人気のあるテレビ番組ですら、その視聴率は70年代の視聴率第15位の番組よりも低いという。新聞の読者数も激減している。米国の日刊紙の販売部数は、この50年間で57%もの下落だ。若い人々はどうやら、ネット上のニュース・トピックを読むだけで充足しているようである。

私たちのメディア環境はいまや、新聞・テレビなどのマスメディアが共通の情報を提供してきた時代から、インターネットによる自律分散型の情報社会へと大きく変わろうとしている。しかしインターネットの普及は、実際には情報の多様性を促すというよりも、各人に「洞穴」のような自閉的ニッチを与えてしまっている。多くの人々は喧しい多様性に耐えきれず、安心できるネット・コミュニティを求める傾向にあるようだ。今後もこうした傾向が続くならば、例えば次のような「情報アナキズム社会」が訪れたとしても、それはあながち悪夢とは言えないであろう。

――人々は毎日、自分の好みに応じて、あらかじめカスタマイズしておいた情報だけをインターネットから受け取る。ある人はスポーツに関する記事と番組を、また別の人はリベラル派の情報だけを、といった具合だ。すでにウォールストリート・ジャーナルのインターネット版には、好きなテーマの情報だけを受け取る「個人化」の機能がついている。ゆくゆくはすべてのインターネット情報が「個人化」されて受信されるようになるかもしれない。人々は溢れる情報の中でストレスを回避するために、好みに合う意見だけを受け入れる。その結果として人々の意見は、階層、職種、年齢、性格といった差異によって分断され、コミュニケーションはますます自閉的で独善的なものになっていく。しかも社会全体としては、「他人の意見に耳を傾けながら自分の意見を鍛える」という民主主義の基本的なプロセスが蝕まれていく――

こうしたアナーキーな状況は、実はインターネットの普及とともに、すでに現実化している。自分の好きな情報を取り入れることが容易になればなるほど、人々は、自分の意見を形成するための「多種多様な情報に触発される機会」を失っていくからだ。なるほど新聞・テレビなどのマスメディアが情報を提供する社会では、その多種多様な情報が人々に共有されることによって、会話や討議が促されていた。しかしマスメディアの衰退は、コミュニケーションの分断をもたらし、公論の形成を困難にしてしまう。情報を無制限にフィルタリングできる社会では、各人の討議能力や創造力はあまり刺激されないだろう。インターネットの普及は情報の「共有体験」をもたらさず、かえって情報環境の洞穴化(エンクレーヴィング)を招いているのが現状だ。

 ではこうした情報摂取の自閉化に対処するために、私たちはいかなる術をもちうるのだろうか。あまり知られていないが、「表現の自由」という言葉には、「自分とは異なる他者の意見を耳にする機会を増やすことによって、人々の意見形成と判断力の陶冶を促す」という含意がある。歩道や公園という公共の場所で、政府が無料で(正確には税金を使って)人々に演説の機会を与えることは、この目的に照らしてはじめて正当化されるであろう。私たちの民主主義社会は、政府によって「公論の形成」を促されなければ、その健全な運営を期待することができない。このことはインターネット利用においても当てはまるのであり、政府はネット上で人々の関心を「公論形成のためのサイト」に向けるために、さまざまなホームページに公共広告を掲載したり、リンクの掲載を依頼したりすることができよう*。公論形成に捧げられたサイトへのリンクは、歩道や公園のように、諸個人の選好形成に対して「思いがけない出会い」や「多様な体験に触れる機会」を与えてくれる。リンクが充実すれば、私たちはインターネットを「情報摂取の洞穴」としてではなく、「広範な意見に接触するための通路」として有効に利用できるかもしれない。

ある意味で「自由な社会」とは、人々が自らの選好を絶えず問題化しつつ、その選好を洗練されたものへと変化させていくような社会である。自由とは、各人が多様な経験の中で選好を形成する過程に他ならない。そのような自由を促すためにも、ネット上のリンクに公共性の意味を付与することは、政府のみならず私たちの活動においてもすぐれた実践となろう。ネット上の「表現の自由」は、表現の内容よりもむしろ、リンクを通じて異他的なるものに触発される機会にこそ、その真に社会的な意義をもつからである。

 

*キャス・サーンスティーン著『インターネットは民主主義の敵か』石川幸憲訳、毎日新聞社2003年、参照。